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어느 바텐더의 날들
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十夜「ある冬の夜の出来事」 [ 2008.03.28 ]
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彼女は、ふぃっと現れる。
深夜近い日付も変わろうかという頃合いに、酔いと睡魔の間をたゆたう様に、フラリフラリとやってくる。
「ふ～、やっと着いたわ。近いつもりでも、歩くと時間が掛かるなぁ、あぁ暖かい」。 コートを脱ぎながら、彼女は続けた。
「いい気持ち、ホッとする感じね。 で、どちらに座ればいいのかしら？」
「こちらへどうぞ。 今夜は少し召しあがっていらっしゃるようですね、よい時間をお過ごしでしたんでしょう」。受け取ったコートを壁に掛けながら、僕は答えた。
「ええとっても、お酒もお食事も美味しかったわ。 さて何を飲もうかしら、ワインは沢山いただいてきたし」。 酔いと暖房に少し頬を赤らめながら彼女は小首を傾げ、眠そうに薄くひらいた目に笑みを浮かべている。本当に幸せそうに、楽しそうに。
「今夜の締め括りという訳ですね。 どう致しましょうか、ワインの後となりますと・・・」
「ウィスキーにするわ、温かい感じのするのがいいな、選んでください。」
「かしこまりました、どのようにしてお召し上がりになられますか？」
「勿論、ストレートでください、ゆっくりと水で割っていただくから。」
僕はバックバーの前で少しの間思案し、今夜の彼女が好むだろうボトルを取り出し、サーブした。チェイサーとは別に、常温の水が入ったデカンタを割り水用に添えて。
彼女はグラスを目線の高さまでゆっくりと掲げ、囁きかける様な仕草をしてから、 琥珀の液体を一口、口に含んだ。
湿気を帯びた長い溜息、胃を伝ってゆくアルコールの刺激に全身の神経を解きほぐし、口中に残ったウィスキーの余韻に浸るように薄く目をつむって微笑んでいる。少し体が左右に揺れている。BGMのエラ・フィッツジェラルドに抱かれているようだ。
いい時間を過ごして戴いている。
僕も嬉しくなりつられて揺れてしまった。二人の間に会話はないが、バーとして、バーテンダーとして、とびきりの時間には間違いない。
数年前なら、彼女がこの時間帯に酔って来店したら、僕は即座に追い返していただろう。何故なら、彼女もまた自分の中の深い森に迷い込んでしまい、抜け出せないでいた一人だったからだ。
まだ２０代だった彼女は、美人ではないが背がスラリと伸びたモデル体型で、ゆったりと上品に喋り、利発で思いやりのある言葉遣いをする女性で、誰にも好かれるタイプだった。ただし、酔ってない時に限ってだ。
誰もが心の奥底に有象無象を抱えている。誰もがそれらと戦い、やり過ごし、折り合いをつけて日々を送っている。しかし、彼女はそれと戦う術を知らなかった。いや、戦うのではなく、助けを求めていた。
酔った彼女は豹変した。自分以外の他人すべてを見下し、憎み、恨み、罵った。なぜ、こんなにも有能な自分の評価が低いのか。なぜ、世間には無能で無知な人間が多くのさばっているのか。なぜ、私は愛されない受け入れられない。私を支えろ、受け入れろ。
助けて、助けろ、助けて。
酔った彼女は毎回のようにクダを巻いた。それを宥め、叱り、聞き、励まし、突き放す。そんな数年間が続いた。今振り返ってみると、嵐のような日々だった。彼女は沢山傷つき、沢山のことを知った。 そして、僕は多くのことを学んだ。
カランッ、氷の音に目をやると、彼女がチェイサーグラスをこちらへ向けていた。
「やっぱり今夜はよく飲んだみたい、チェイサーをくださいな。」
「無理して飲まないでくださいね、体に障るお酒は残しても構わないですから。」
「いいえ、この一杯はちゃんと頂くわ、それは大丈夫なの。 ただ少し水も欲しいの、ゆっくり飲むから大丈夫よ。ワン・フォー・ザ・ロード、これで今夜は帰るの」。
「家路の為の一杯、帰る勇気を奮い起こす為の一杯ですね」。
「それは男性用ね、私は少し違います。 小説のエピローグや映画のエンディングロールの様な感じ、今夜を納得する為じゃなく完成させる為なの。 それにお家は大好きよ、私は」。
「ハハハ、おっしゃる通りですね。失礼致しました。 ただ負け惜しみではないですが、僕も家は好きですよ、一応。」
「一応・・・、でしょ？」
「一応・・・・・、ですかね。」
グラスのウィスキーが二分の一まで減ったところで、彼女はデカンタの常温の水をグラスへ注いだ。 琥珀色が少し黄昏色に変わる位まで。ゆっくりとグラスを揺らしてから、黄昏を口にする。
ウィスキーは水を足していくと味や香りが次々に変化していく。その変化に彼女はまた目を細め、注意深く新たな個性を探ってゆく。
一杯のウィスキーの中には幾つもの顔が隠されていて、その魅力をうまく引き出しては出会いを愉しむ。 ウィスキーの飲み方としては至極上等な方法である。
「人間、変われば変わるもんだなあ」。僕は心の中で呟いた。
良くも悪くも人は変わり続けてゆく。心の持ち様ひとつで、その爪先は刻々と向きを変えるけれど、どんなに小さな努力でも歩を止めない限りは、登ってゆくことが出来るはずだ。彼女は自分との戦いに勝利したのだ。
今、彼女は平穏な地に足を置いている。 その地が山の何合目かはわからないが、以前よりは確実に高い位置にあるに違いない。
「何をニタニタしているのかしら？」
「えっ、ニヤついていましたか？」。 僕は右手で自分の頬を撫でた。
「ええ、なんだか嬉しそうよ、いい事があったみたい。 私にもおすそ分けをくださいな」。 彼女は可愛いく、ねだるような顔をして言った。
「いやぁ、あんまり素敵な雰囲気でいらっしゃるんで、それが嬉しくて顔に出ていたみたいです。ずっとそんな風でいらっしゃればいいなと・・」。僕は反射的に答えていた。 顔に出ていたのは不覚だったが、別に悪い考えでもないし。 しかし、反応は予想したものとは違った。
彼女はカウンターに視線を落とし、黙ってしまった。 目許の笑みには、霞みがかかっていた。
「気を悪くされましたか、少し言葉が過ぎましたね、悪気は無かったんです、スミマセン」。
僕の言葉に彼女は顔を上げ、「いいえ、私はひどかったものね。 ゴメンなさいね、迷惑ばかりを掛けていたわ」と、静かに言った。そして、彼女の目許の霞みは消え、代わりに悪戯をしようとする子供のような顔があった。
「でもね、空がいつも晴れ続けるなんて有り得ないわ、曇りもあれば雨も降る。降ったり止んだりを繰り返す日だってあるわ。砂漠のように乾く日が続くこともあるし。 そういえば、嵐の前は風も凪いで静かなものよね。まるで嵐が来ることを気付かせないよう油断させるみたいに」。
「いやぁ、そうですね。何事にもずっと続くということはない。ちょっと子供っぽい考えでした」。すると、彼女は嬉しそうな顔をして言った。
「そうよ。よく言うでしょ、山の天気は変わりやすいって。 女性の感情はコロコロ変わるんだから、 まるで山の天気のようだわ。 今の私だって嵐の前かもしれないわよ。あなた、油断していたら、突風に吹き飛ばされるかもしれないんだから」。
「いやいやぁ、それは困ります。 嵐はもうたくさん！ 平穏無事が一番です。どうか勘弁して下さい」。
「あら、そんなにハッキリ言わなくてもいいのに、なんだか頑張って嵐を呼びたくなる様なおっしゃりようね。まあいいわ、今夜はこれで失礼します。ご馳走様でした」。
彼女はわざとむくれた様な顔をしてからニコリと笑い、来た時と同じようにフワリフワリと帰って行った。
きっと、彼女はもう大丈夫だろう。お酒にも自分の中の森にも飲み込まれることなく向き合うことが出来るようになった。とても素敵な方になられた。閉店後、そんな事を考えながら僕は上機嫌で店を出た。
冬の深夜は、大阪といえどもよく冷える。
風はないが底冷えするアスファルトに背筋がゾクッと震えた。今夜は特によく冷えるようだ。（油断大敵、風邪を引かないように気をつけないとな）
ジャンパーの衿を立てながら、独り言ちた。ふっと、耳の奥に声が響いた。
「嵐の前は、静かに凪ぐものよ」。再び、僕の背筋が凍った。
まさか、今夜は嵐の前？ 静かな前兆？ まさかっ、有り得ない！そんな事あるはずがない・・・。でも、女性は摩訶不思議やからなぁ、難しいからなぁ・・・・・。
迷い込んだのは、僕のほうだろうか。
Columnist, Hiroki Sakajiri
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